
国語の第2回は、文学。
今回は、菊池寛著「我が馬券哲学」について、中学生でも理解できるよう分かりやすく解説していきます。
菊池寛

1888(明治21)年生まれの菊池寛(きくちかん)は、大正から昭和初期にかけて活躍した文学者です。
大学在学中の1916(大正5)年に芥川龍之介らと同人誌「新思潮」を刊行し、知的で技巧的な作品を発表しました。
大学卒業後は新聞記者になりましたが、その傍らで「恩讐の彼方に(おんしゅうのかなたに)」などの作品を発表して、文壇での地位を確立しました。
そして、現代の我々にとって身近な功績としては、あの「文春砲(ぶんしゅんほう)」でおなじみの雑誌「週刊文春」を刊行する文藝春秋社(現在の株式会社文藝春秋)を創設したのが菊池寛なのです。
さらに、「芥川龍之介賞(芥川賞)」「直木三十五賞(直木賞)」「菊池寛賞」といった文学賞を創設するなど、大衆文学の発展に大きく貢献した人物といえます。
実は、菊池寛は競馬が大好きだったようで、馬券を買うことはもちろんのこと、なんと自ら馬主になって所有馬の走りに熱中していたのです。
しかも、所有馬のトキノチカラが1940(昭和15)年の帝室御賞典、現在のGⅠ天皇賞にあたるレースを勝ってしまうほど、本格的な馬主として活躍していました。
「我が馬券哲学」は現代にも通ずる知恵であり戒め

そんな数々の名作と功績を残した菊池寛ですが、「競馬の本質」を理解する上でとても貴重な作品を残しています。
果たしてこれを「文学」と言ってよいのかわかりませんが、現代の「文藝春秋」や「週刊文春」に載っていそうな、まさに菊池寛が大事にしていた「大衆文学」の醍醐味のような作品と言えるかもしれません。
その作品とは、その名も「我が馬券哲学」です。
ど直球の作品名ですが、内容も非常にわかりやすく、シンプルな構成です。
菊池寛は作品の冒頭で次のように述べています。
次ぎに載せるのは、自分の馬券哲学である。数年前に書いたものだが、あまり読まれていないと思うので再録することにした。
菊池寛「我が馬券哲学」
「あまり読まれていないと思うので再録することにした」というところにも、自身の馬券哲学に対する強い信念と多くの人に知ってほしいという願いが込められているように思います。
この作品には、菊池寛自身の考える馬券を楽しむための知恵と戒めが、シンプルな文章で、しかし、現代の我々競馬ファンも「うーん」と唸るような馬券の真理や本質をとらえて書き残されています。
当然ですが、菊池寛がこの作品を書いたのは戦前であって、今から約100年も前の競馬をもとに書かれたものです。現代の競馬と違う点は多かれ少なかれあることは前提として、これは、菊池寛が大好きだった競馬を後世の人々に語り継ぐために残したタイムカプセルではないでしょうか。
「我が馬券哲学」の一部を紹介
では、ここで菊池寛の「我が競馬哲学」から現代の競馬ファンにも参考になる一節を紹介しましょう。
全文を見たいという方は、お近くの図書館で菊池寛全集などを探してみてください。
堅き本命を取り、不確かなる本命を避け、たしかなる穴を取る、これ名人の域なれども、容易に達しがたし。
菊池寛「我が馬券哲学」
これは「読んで字のごとく」ですね。
現代の競馬ファンにとっても耳が痛い言葉かもしれません。
昔の競馬ファンも同じ感覚だったのだなと、少しホッとする内容ではあります。
確かな穴馬を当てることがいかに難しいかについては誰もが納得するところですが、堅い本命馬を当てることも同様に難しいと言っているところが非常に面白いですね。
馬券を買ったことがない人は「?」だと思いますが、1番人気ガチガチの本命馬をあえて買わなかったせいで馬券を外した経験があるファンは、きっと多いはずです。
競馬ファンの心理をとらえた、シンプルながら奥が深い指摘です。
穴場に三、四枚も札がかかると、もう買うのが嫌になる穴買主義者あり、これも亦馬券買いの邪道。
菊池寛「我が馬券哲学」
「穴買主義者」というのは、菊池寛によると、なるべく大きな配当を獲ろうとする競馬ファンのことだそうです。
「札」がどういう意味かはわかりませんが、要するに、穴馬に賭ける人が増えると、とたんにその穴馬の馬券を買うことが嫌になる穴買主義者がいるが、それは馬券の買い方としてそもそも邪道ではないか、と疑問を呈しているのです。
菊池寛としては、「穴買主義者」は否定しないものの、ひたすら人気がない馬を買おうとする馬券の買い方は認めたくなかったようです。
そして、「この馬」と決めたらその馬と心中するつもりで人気に関係なく買うべきだ、という菊池寛の美学が見て取れます。きっと、筋の通らないことが許せない性格だったのでしょう。
穴場の入口の開くや否や、傍目もふらず本命へ殺到する群集あり、本命主義の邪道である。他の馬が売れないのに配当金いずれにありやと訊いて見たくなる。甲馬乙馬に幾何の投票あるゆえ丙馬を買って、これを獲得せんとするこそ、馬券買の本意ならずや。
菊池寛「我が馬券哲学」
これは現代語訳がなかなか難しいのですが、簡単に以下のような訳をしてみました。
「良い穴馬がいるにも関わらず、これを見もせず人気の本命馬に殺到する競馬ファンがいるが、こういう馬券の買い方は本命主義の邪道である。他の馬の馬券が売れていないのに、本命馬に大した配当金などつくはずがない。『AとBは人気になっているから、不人気なCを買って当ててやろう』という馬券の買い方こそ本来の楽しみ方ではないのか。」
「本命主義」というのは、これも菊池寛によると、配当はともかく勝ち馬を当てようとする馬券の買い方だそうです。
先ほどの「穴買主義者」に対する言葉と矛盾するように聞こえますが、そんなことはありません。
つまり、やはり「本命主義」は否定しないものの、ひたすら人気の本命馬だけを買おうとする馬券の買い方も認めたくなかったのです。
ただ馬券が当たればいいのではなくて、できるだけ高配当を狙おうとする姿勢で臨まないと競馬は楽しくない、という菊池寛自身の信念を感じます。
実力に人気相当する場合、実力よりも人気の上走しる場合、実力よりも人気の下走しる場合。最後の場合は絶対に買うべきである。
菊池寛「我が馬券哲学」
- 実力と人気が合っている場合
- 実力よりも人気が上回っている場合
- 実力よりも人気が下回っている場合
このうち3の場合は絶対に馬券を買うべきだ、というシンプルながら、まさに「馬券の極意」とも言うべき格言です。
実力の割に人気がない馬を見つけたら、それは高配当を手に入れるチャンスなのですから。
「穴買主義」にしろ「本命主義」にしろ、重要なのはいかにして実力を正しく見極めるかであって、人気だけを見て右往左往することは菊池寛の言葉を借りると「邪道」なわけです。
そして、次の言葉につながります。
「何々がよい」と、一人これを云えば十人これを口にする。ほんとうは、一人の人気である。しかも、それが十となり百となっている。これ競馬場の人気である。
菊池寛「我が馬券哲学」
「これは本当にそう!」という競馬ファンの声が聞こえてきそうですが、果たして馬とレースを目の前にして、この真理をどれだけの競馬ファンが冷静に受け止めて馬券を買っているでしょうか?
古くから「隣の芝生は青く見える」と言われているように、他人の「この馬は良い」という声を聴くと、自分が良いと思っている馬よりもそちらの方が良く見えてしまうのは、いつの時代も変わらない人間の心理なのです。
そして「人気」というのは、その言葉のとおり人間が作り出すものであって、その場(競馬場)の雰囲気でいつの間にかできあがっていたりします。
やはり大事なのは、周りの声や人気に影響されることなく、己の信じる馬と心中するつもりで馬券を買うことだということでしょう。
損を怖れ、本命々々と買う人あり、しかし損がそれ程恐しいなら、馬券などやらざるに如かず。
菊池寛「我が馬券哲学」
これも「競馬の本質」でしょう。
あらためて別の機会に詳しく解説したいと思いますが、競馬は損をするものであって、儲けるための手段ではありません。
競馬で儲けようと思っている人は、大抵の場合は競馬で不幸な目にあうことでしょう。
競馬に損は付きものであることを理解した上で、大人の遊び方ができる競馬ファンに是非なっていただきたいと思います。
それが理解できないのなら、菊池寛が言うように「馬券などやらない方がよい」のです。
サラブレッドとは、如何なるものかも知らずに馬券をやる人あり、悲しむべし。馬の血統、記録などを、ちっとも研究せずに、馬券をやるのはばくち打である。
菊池寛「我が馬券哲学」
この記事を読んでいただいた皆様に、最後はこの言葉を紹介します。
この学習教材を作成した目的は「競馬の本質」をできるだけ多くの人に知ってもらいたいということであり、競馬の本質を理解することができれば、競馬や馬券を健全に楽しむことができると信じています。
競馬は、決して単なる博打(ばくち)ではありません。しかし、競馬の本質を知らずにやみくもに馬券にお金をつぎ込むことは、菊池寛の言うとおり博打と何ら変わらない行為です。
この学習教材を通じて、血統や記録の見方はもちろん、競馬を楽しむための様々な視点を手に入れていただき、競馬の素晴らしさと面白さを是非堪能してください。
参考書籍
「決定版 菊池寛全集」(文豪e叢書)
参考サイト
国立国会図書館