「競馬は無くすべき」に対してどう答えられるか

「競馬は無くすべき」に対してどう答えられるか

これは、自分の中で最も難しい命題であり、かつ、最もやりがいのある研究テーマである。
すなわち、「競馬は無くすべき」という主張に対して支持する者が増えれば増えるほど、競馬文化が消滅する確率は高まる、と考えているからであり、その主張が誤りであるという証明が簡単ではないからだ。

私自身は、競馬文化を後世に残していくことを使命に活動しているわけだから、当然、この主張に対して反論し、その主張の支持者たちを”寝返らせていく”ことができなければ、私の活動は何の意味もなくなるわけである。

「競馬は無くすべき」という主張は、大きく分けると2つに分類されると考えている。

1つは、「競馬はギャンブルで、社会を乱すものだから無くすべき」という主張。
もう1つは、「人を乗せてムチで叩いて、最後は肉にしてしまう競馬は、動物虐待だから無くすべき」という主張だ。

1つ目の主張は、ある意味ではその通りであり、別の意味では矛盾もある。
なぜなら、確かに競馬はギャンブルであり、馬券にお金をつぎ込んだせいで生活が破綻する人もいれば、一昔前には、八百長や競馬場内での騒擾(暴動)事件も発生していて、競馬が社会に与える悪影響は否定できない。

しかし、現に、競馬は合法的に行われている。しかも、世界中で
この事実をどうとらえるべきか?

そして、2つ目の主張については、矛盾というより、動物虐待に対する理解やコンセンサスが未熟という印象がある。
「動物虐待は言い過ぎだが、確かによく考えれば可哀そうかも」という感じで、この主張に同意はできないが、完全に否定することもできない、という意見が競馬ファンの大半ではないだろうか?
その一方で、何の根拠もなく感情だけで「動物虐待」と言い切ってしまうと、このように「いや、そこまで言わなくても・・・」という抵抗感が生まれるので、仮に動物虐待が事実だとしても、その主張は多くの人に届かなくなる。
つまり、動物虐待だと思う人と、そうでない人の間で議論がいつまでたっても平行線になり、その結果、そもそも関心がない人にとっても意味の分からない主張であり議論になってしまうのだ。

このことから考えると、現在の競馬の立ち位置というのは、社会的な矛盾と議論の未熟さの上でかろうじて成り立っているということかもしれない。
競馬が今後も存続し続けるという点においては、これらの矛盾や議論をあえて放置しておくほうがいいのかもしれないが、その土台はあまりにも脆弱で、ちょっとしたきっかけで一気に崩れる可能性がある。

したがって、「競馬は無くすべき」という主張に対しては、いきなり反論したり無視したりするのではなく、「それはどういう意味ですか?」「無くなるとどんな社会になりますか?それは望ましい社会の姿ですか?」「人と馬が同時に幸せになる方法ですか?」というように辛抱強く議論し続ける姿勢が大事ではないだろうか。

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