ハルウララは、北海道日高地方の三石(みついし)という場所で生まれた。
三石は、第二次競馬ブームを作った”アイドルホース”のオグリキャップが生まれた土地でもある。奇しくも、次の競馬ブームを作ったハルウララが、10年の時を超えてオグリキャップの”再来”として誕生したのである。
ハルウララには、故郷以外にもオグリキャップと似ているところが2つある。
1つは、地方競馬でデビューしたこと。
もう1つは、馬主がコロコロ変わったことである。
ハルウララの最初の馬主は、生産者である信田牧場(のぶたぼくじょう)であった。 信田牧場は、ハルウララを仔馬の時に他の馬主へ売るつもりであったが、結果的にはどの馬主からも声がかからず、仕方なく自らが馬主となって高知競馬場でデビューさせたのだ。
しかし、その頃の高知競馬場は経営難で、廃止寸前というところまで追い込まれていた。 馬主の重要な収入源である出走手当(レースの着順に応じて馬主に支給される手当)は半額までカットされていて、ただでさえ成績の悪いハルウララを所有し続けることは、小さな牧場にとって大きな負担となった。
最終的には、信田牧場の「ハルウララを手放したい」という意向がハルウララを管理する宗石(むねいし)調教師に伝えられたことで、ハルウララは次の馬主の手に渡ることとなった。
ここで、ハルウララは処分されてしまう可能性があったのだが、宗石調教師の「処分したくない」という強い思いがハルウララの命を助け、結果的には、その後のハルウララブームにつながっていくことになる。
2003年夏、ちょうど全国でハルウララの連敗記録が話題になり始めた頃に、ある1人の女性のもとにハルウララの噂が伝わる。
その女性とは、エッセイストの安西美穂子。競走馬に関するエッセイを書きながら、引退馬を引き取る活動も行っていた安西は、ハルウララのことを知ると、すぐに高知の宗石調教師を訪ねた。
最初はハルウララに関する記事を書くことが目的だったが、宗石調教師と話すうちに、「ハルウララを引き取ろう」という気になったという。宗石調教師のハルウララを思いやる姿勢に心を動かされたのだ。
当初は、2003年秋にハルウララは引退し、その後に安西が引き取るはずだったのだが、図らずもハルウララブームが盛り上がり始め、2003年12月に通算100戦100敗を記録する頃にはブームがピークに差しかかった。
宗石調教師は「かわいそうとも思ったけど、もしかしたら、ウララは何百頭もの馬たちを救えるのかもしれないと思った」と、ハルウララの現役続行を決断したのだ。ハルウララは、高知競馬再生の切り札として、文字どおり首の皮が一枚つながった状態で、2004年も走り続けた。
安西は、宗石調教師の要請で地方競馬の馬主資格を取得。2004年3月4日、安西は正式にハルウララの馬主となった。 そして、その2週間後。あの歴史的レースが行われる。 天才ジョッキー武豊が騎乗したハルウララは、1万3000人を超える大観衆の目の前で”記念すべき”106敗目を記録したのである。
同じ年の8月に113敗目を喫したレース後の記者会見で安西は、2005年に再び武豊騎手に乗ってもらってハルウララを引退させたいという意向を述べ、併せて、このあとは放牧に出してハルウララをリフレッシュさせてやりたいとも述べた。
ここから、ハルウララの周囲には不穏な空気が流れ始める。
ハルウララは、誰のものなのか?誰のために走るのか?誰に運命を決める権利があるのか?
ハルウララブームは、競馬と人間と競走馬の中に存在する、大きな矛盾と深い問いを我々に突きつけてくる。
少なくとも言えることは、ハルウララに関わる全ての人が、それぞれの立場で真剣にハルウララと競馬に向き合い、日々を戦っていたということだ。
我々競馬ファンは、どんな意見があろうと、この努力とひたむきな姿勢には敬意を払うべきであろう。
