【文学】寺山修司が残した名言【国語#4】

【文学】寺山修司が残した名言【国語#4】

国語の第4回は、文学。
今回は、寺山修司が残した名言について、中学生でも理解できるよう分かりやすく解説していきます。

寺山修司

競馬をこよなく愛した稀代の天才クリエイター

1935(昭和10)年に青森県三沢市で生まれた寺山修司(てらやましゅうじ)は、昭和の高度成長期に活躍したマルチクリエイターです。

マルチクリエイターというと大げさに聞こえるかもしれませんが、寺山修司ほどこの言葉がふさわしい人物はいないのではないでしょうか。
小説やエッセイを書いてベストセラー作家になったかと思えば、一方で見事な俳句や短歌を詠み、心を揺さぶるようなも書きながら、舞台演出家して演劇をプロデュース。おまけに映画監督として『田園に死す』などの名作を残すという、「一体どれだけ才能があるんだ?」とあきれてしまうくらいの天才芸術家だったのです。

しかし、そんな天才も病魔に侵されてしまい、1983(昭和58)年に47歳という若さでこの世を去ってしまいました。短い人生で数多くの名作を残したというところも、寺山が伝説的に語られる所以なのかもしれません。

寺山はもともと体質的に弱いところがあり、早稲田大学に通っていた頃に「ネフローゼ」という腎臓の病気を患い、長期間入院していたこともありました(死去した際の病気は肝硬変と腹膜炎)。
寺山が競馬と出会ったのは、この入院の頃だといいます。
同じく作家で競馬評論家の山野浩一と仲良くなり、山野に連れられて頻繁に競馬場へ出かけていくようになったのです。
そして、そこで「ミオソチス」という牝馬(メス馬)と運命的な出会いがあり、寺山は競馬エッセイを書くようになりました。

寺山が描く競馬の世界はたちまち多くの競馬ファンの心をつかみ、一気に寺山の名を世間に知らしめることになったのです。
1973年には日本中央競馬会(JRA)のCMにも出演。そこには、

カモメは飛びながら歌を覚え、人生は遊びながら年老いていく

という印象的な詩を語る寺山の姿がありました。

寺山は騎手の吉永正人の大ファンを公言していて、吉永との名コンビで三冠馬になったミスタシービーが皐月賞に出走する際は、「吉永正人のミスターシービーが勝つ」と明言。まさにそのとおりのレース結果となったわけです。

しかし、その時にはすでに病魔が寺山の体を蝕んでいました。
吉永とミスターシービーがダービーで二冠を達成する瞬間を見届けることなく、寺山はこの世を去ったのです。

寺山修司の競馬観

寺山修司にとって人生は競馬そのものだった

寺山修司の競馬観を語る上で、最も有名で象徴的な寺山の言葉があります。

競馬が人生の比喩ではない。人生が競馬の比喩なのだ

「競馬の”言葉力”」寺山修司の言葉より

これに似た言葉で、ノーベル文学賞作家のアーネスト・ヘミングウェイが残した「人生は競馬の縮図」という言葉があります。
ヘミングウェイが「競馬はまるで人生のようだ」と言ったのに対し、寺山は「(ヘミングウェイが言うことは)逆だ。人生はまるで競馬のようだ、なのだ」と言ったわけです。

ヘミングウェイと寺山の言葉のニュアンスの違いがわかるでしょうか?
この、読者や視聴者の頭に「?」を浮かばせた上で、文章や言葉の意味を吟味させる寺山の手法が秀逸だと言えます。

寺山は、決してヘミングウェイを批判したかったわけではないでしょう。
ヘミングウェイの言葉に重ねて、あえてもう1歩踏み込んだ言葉を使うことで、競馬の崇高さと人間臭さを同時に表現したのです。

競走馬たちが命をかけてレースを走り、勝者と敗者でその後の運命が大きく変わってしまう残酷な世界を見て、「人間の世界(人生)も競馬と同じじゃないか・・・」と寺山は感銘を受けたのでしょう。
先述したJRAのCMでは、次のような言葉も語っていました。

遊びってのは、もうひとつの人生なんだな。人生じゃ負けられないようなことでも、遊びでだったら負けることができるしね

競馬(遊び)で負けることも1つの人生であって、だからこそ、競馬は素晴らしいのだ、という寺山の競馬観が伝わってきます。

寺山は、自らの競馬エッセイや競馬を題材にした詩の中で、まさに「人生は競馬そのものだ」という世界観を繰り広げていきます。それらを読むと、あたかも競馬と人生の境界がなくなるような感覚を覚えるのです。この不思議な競馬観こそが、寺山が多くの競馬ファンを惹きつけた所以と言えるでしょう。

さらば、テンポイント

テンポイントはレース中の骨折で絶命した悲劇の名馬

寺山修司の競馬観を味わうために、1つの作品を紹介します。

さらば、テンポイント」という寺山の詩です。

テンポイントと聞くと、往年の競馬ファンは胸が熱くなってくると思います。
テンポイントは、1970年代に同世代のトウショウボーイグリーングラスとともに頭文字をとって「TTG」という3強を形成していた名馬で、クラシックは勝ってなかったものの、5歳(今の4歳)時にライバル2頭を破って天皇賞(春)と有馬記念を制覇しました

しかし、6歳(今の5歳)になって初戦の1978年の日経新春杯。66.5kgという過酷なハンデを背負ったテンポイントは、4コーナーで骨折して競走中止
通常なら安楽死となるところ、テンポイントのファンから「殺さないで」というたくさんの声が寄せられたこともあり、オーナーらは手術による延命を試みました。しかし、結果は余りにも残酷で、テンポイントは43日間の闘病生活の末、ガリガリにやせ細って衰弱死してしまったのです

寺山修司は、テンポイントの死を悼んで「さらば、テンポイント」を詠んだのです。
「人生は競馬そのものである」という寺山にとって、テンポイントの死は人生のどの場面に重なったのでしょうか。

ここで、「さらば、テンポイント」からいくつかの詩を引用して、寺山の競馬観を感じてもらいたいと思います。

もし朝がきたら
グリーングラスは霧の中で調教するつもりだった
こんどこそテンポイントに代わって
日本一のサラブレッドになるために

「さらば、テンポイント」より

グリーングラスとは、先述のとおりテンポイントのライバルの1頭で、テンポイントが勝った有馬記念で3着に敗れていた馬です。

グリーングラスは、その有馬記念のあと、2度とテンポイントにリベンジする機会は与えられませんでした。
「いざ戦おうと思ったときに、憎きアイツがいない」という、残された者の寂しさを感じる詩です。

友達であろうとライバルであろうと、今一緒にいる瞬間を大事にしよう、という人生の教訓にも見えてきます。

目をつぶると
何もかもが見える
ロンシャン競馬場の満員のスタンドの
喝采に送られて出てゆく
おまえの姿が

「さらば、テンポイント」より

ロンシャン競馬場とは、世界最高峰のレースとも言われるフランスの「凱旋門賞」が行われる舞台です。
そう、テンポイントは、日経新春杯で骨折をしなければ、その後に海外遠征をする計画があったのです。そして、競馬ファンも、テンポイントが凱旋門賞で活躍する姿を夢見ていたわけです。

高度成長期で飛躍的に経済発展していた日本でしたが、日米安保やベトナム戦争、オイルショックなど世界の動きに翻弄されてしまう危うさをはらんだ時代背景もあり、「まだ世界は遠かった」という当時の人々の失望を感じることができます。

そして、テンポイントという”希望”を失ったことの大きさをあらためて思い知る瞬間でもあります。

だが
目をあけても
朝はもう来ない
おまえはもう
ただの思い出にすぎないのだ

「さらば、テンポイント」より

テンポイントが死んでしまった事実を受け入れられない、そんなファンの思いがある一方で、ふと現実の世界に戻ると無情にも押し寄せて来る日常生活にその思いがかき消されてしまうという、なんともいえない複雑な気持ちにさせる詩です。

まさに、競馬と人生がお互いにオーバーラップしている寺山の競馬観が表された詩ではないでしょうか。
テンポイントの死という悲劇を、単なる人生の1ページとせずに、人生そのものとして受け入れようという寺山の姿勢に、せわしない時代を生きる現代の競馬ファンも是非1度は学んでみるとよいと思います。

参考図書

「旅路の果て」(寺山修司著、河出書房新社)

「競馬の”言葉力”」(関口隆哉・宮崎聡史著、KADOKAWA)

参考サイト

NHKアーカイブス「寺山修司」

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