
社会の第3回は、歴史。
今回は、日本競馬における馬券の歴史について、中学生でも理解できるよう分かりやすく解説していきます。
前編を読んでいない方は、以下のリンクからご覧ください。
旧競馬法の制定(大正12年)
われわれ現代の日本人が馬券を買うことができるのは、「競馬法」という法律によって馬券が合法化されているからです。詳しくは以下の記事で解説しています。
この「競馬法」ですが、実は法律としては”二代目”です。
すなわち、現代の競馬法よりも前に存在していた”初代”の競馬法――以下「旧競馬法」といいます――というのが、日本に大衆娯楽としての競馬を根付かせた立役者だったのです。
さて、前回の記事で、明治時代末期に当時の政府によって馬券が禁止されたことを解説しました。
馬券というのは、ゲーム感覚でちょこっと買うくらいならこんなに面白い娯楽はないのですが、ギャンブルの側面が強くなり過ぎると、人間の本性が醜いほどにさらけ出されてしまう”諸刃の剣”でもあります。
文明開化と日清・日露戦争の勝利で様々な抑圧から解放された明治の民衆たちは、馬券の”魔力”によってモラルを忘れ、世の中を乱す行動を起こしてしまいました。
そして、馬券は禁止されたのです。
この馬券禁止の歴史的背景は、旧競馬法の制定、そして現代の競馬法の制定に至るまで「決して忘れてはならない教訓」として連綿と受け継がれることになります。
現代の我々も、明治の人々と同じような状況になれば再び馬券が禁止されることになりかねないと、しっかり肝に銘じなければなりません。
旧競馬法の制定に動きだした安田伊左衛門
馬券禁止は、当時乱立していた競馬会――競馬の主催者――に大きな衝撃を与えました。馬券を売れば客が集まり、客が馬券を買えば買うほど儲かるという「金のなる木」だった競馬は、一気にビジネスとしての存在意義を失っていったのです。
しかし、そもそも競馬を明治政府が奨励したのは、軍馬の改良と馬事思想を日本人に広く普及することが目的でした。だからこそ、本来は刑法によって禁止されてもおかしくない馬券を、明治政府は黙許(黙認)してきたのです。
「馬券禁止によって、ようやく日本に根付き始めた競馬を衰退させるわけにはいかない」
日本競馬の発展と馬券復活を願うとある人物が、旧競馬法の制定に向けて動き出しました。
その人物こそ、日本中央競馬会(JRA)の初代理事長であり、GⅠレースの「安田記念」の由来となった安田伊左衛門(やすだいざえもん)でした。

「東京競馬会」という競馬会の中心人物であった安田は、政府に協力を求められて馬券発売を推進してきました。しかし、急に政府に”はしご”をはずされてしまったのです。
馬券禁止によって政府内にあった「馬政局」という競馬を推進するための独立組織は、陸軍省の中に吸収されてしまいました。
安田は馬政局との関係性が切れてしまったわけですが、当時の寺内正毅陸軍大臣(のちの首相)に「頼んでおいてすまなかったが、競馬から手を引いてくれ」と言われことに対し、安田は

私は頼まれたからやっているのではありません。自分でよく考えて必要だと思ったから発起したのです。今やめることはとてもできません。むしろ馬券の復活運動にあくまで邁進します
と毅然と答えたといいます。
安田はその言葉のとおり、陸軍省とも密接かつ良好な連携を保ちながら、さらに衆議院選挙に立候補して議員になり、二期にわたって政界で馬券復活運動を推進したのです。
反対派の多かった旧競馬法案
安田や全国の競馬会関係者などが中心になって旧競馬法の制定を目指していくことになったのですが、そこには大きな壁が立ちはだかりました。
1つは政府内の反対派、もう1つは議会の反対派、そして最後は世論です。
政府内の反対論で最も大きかったのは、まさに競馬行政を所管する陸軍省でした。なぜなら、馬券禁止に追い込んだ張本人も陸軍省だったからです。
「軍馬の改良に競馬は有効だが、そこに馬券の発売は必要ない」という立場を取っていた陸軍省として、禁止したばかりの馬券を復活させようという旧競馬法案に賛成する訳にはいきません。
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議会としても、世の中の風俗を乱すものとして禁止した馬券を復活させようという法案に対して、懐疑論や反対論が噴出する結果になるのは当然の流れです。
1909(明治42)年の第25回帝国議会に三名の代議士から法案が提出された際には、衆議院で反対演説を行った議員に賛成派が殴り掛かるというハプニングが起こるほど、議会は白熱していたようです。
そして、最も馬券を毛嫌いしていたのは貴族院でした。法案が衆議院を通過しても、貴族院にあっけなく握りつぶされてしまう、ということが繰り返されたのです。
さらに、馬券の運命を大きく左右したのは世論の声でした。
もともと馬券推進派だった陸軍が馬券禁止の方針に変わったのも、「陸軍が金儲けに関わるなどけしからん」という世論に耐えられなくなったためです。
旧競馬法が成立するためのカギは、世論を「法の下での馬券は民衆にとって最高の娯楽」という論調に導くことにありました。
馬券復活の突破口となった”景品券競馬”
馬券復活に向けた世論を形成するためには、民衆が一定の規制の中で勝ち馬予想を楽しむ機会を増やさなければなりませんでした。
そこで、地方での1つの取り組みが大きく注目されました。
明治末期に乱立した競馬会は、最終的に11の「倶楽部」に整理統合されました。
そのうちの1つに「宮崎競馬倶楽部」があります。
馬券禁止による財政難の中で、いかにして収益を確保するか考えた宮崎競馬倶楽部は、1912(明治45)年から入場者に福引券を配布し――商店街の福引のように――当選者に景品を贈呈することにしました。
すると、当時の宮崎県知事が「それなら勝ち馬を予想して的中させた人に景品をあげるほうが、馬事思想の普及にもなるでしょ」と考え、地元の裁判所に問い合わせた結果、「商店街の福引程度の景品なら刑法上は問題ない」という回答を得たのです。
そこで、1913(大正2)年からは入場料50銭につき投票券1枚を配布し、的中者に反物などの景品を贈ることにしました。これがいわゆる宮崎方式の「景品券投票」です。
その後、この「景品券投票」の評判は東京競馬にも伝わり、「勝馬投票」と名を変えて1914(大正3)年から東京競馬でも”景品券競馬”が行われるようになりました。そのおかげもあり、馬券禁止で入場者数の減少に悩んでいた東京競馬には多数の観客が押し寄せ、一気に活気が戻ってきたのです。
ちなみに、現在の「勝馬投票券」という馬券の正式名称は、この「勝馬投票」という言葉に由来します。勝馬投票券については以下の記事で詳しく解説しています。
こうした景品券競馬は、馬券禁止の中で収益を上げるための1つの手段となって、あっという間に他の倶楽部にも波及していったのです。
景品券競馬での勝馬投票、すなわち、馬を研究して勝ち馬を予想するという行為が大衆娯楽として受け入れられてていくにつれ、世論は徐々に馬券復活の方向へ流れていきました。
政府内の反対派の軟化
東京競馬が勝馬投票によって息を吹き返した1914(大正3)年、馬券復活に向けてさらなる追い風が吹きます。
司法大臣(現在の法務大臣)に、東京競馬倶楽部――東京競馬を主催する倶楽部――の元会長であり、元東京市長でもある尾崎行雄(おざきゆきお)が就任したのです。
実は同じ年に、当時の第三次桂太郎内閣が全国的な倒閣運動によって倒される「大正政変」が起こっており、その運動の中心人物だったのが、当時「立憲政友会」という政党の中心メンバーだった尾崎行雄でした。尾崎行雄は、「大正デモクラシー」への流れをつくった「憲政の神様」と呼ばれる人物だったのです。
大正時代に入り、世の中は徐々に民衆のパワーが増していって、民衆の声が政治に及ぼす影響も大きくなり始めていました。そんな中で尾崎行雄が司法大臣に就任したわけですから、”法律を司る”司法省としても、馬券を一律に禁止するのではなく、「(民衆の成熟度に応じて)法律による一定の規制が入るなら馬券発売に反対しない」というスタンスになっていきます。
最終的には、司法省も馬券発売を容認する方向となり、馬券発売を公認するためには旧競馬法を成立させるしかない、という結論に至ったのです。
この司法省の態度の軟化には、1900年代の初頭に日本と同じ理由――馬券に絡む不正と騒擾の頻発――で馬券を廃止したアメリカが、1913(大正2)年に再び馬券発売を復活させた世界的潮流も味方したようです。
要するに、馬券発売を公認するかどうかによってその国の民度が表される、ということに気づいたのでしょう。
そして、馬券発売に強く反対していた陸軍も、世論の流れや司法省の見解を見て賛成の方向に傾いていきます。馬券禁止前は、陸軍も軍馬改良のために馬券を推進してきた立場でしたから、旧競馬法が成立するならそれに越したことはなかったわけです。
議論の焦点は風紀の維持と馬券購入の制限に
こうして、1918(大正7)年に原敬(はらたかし)内閣において「馬政委員会」という委員会が設置され、本格的に旧競馬法案の中身について議論が始まりました。
明治末期に法案が提出された際にはあっけなく否決されてしまいましたが、今回は、政府と議会が一体となって、馬券発売を前提とした制度設計をしっかり議論して決めていくことになったのですから、約10年越しの大きな前進です。
しかし、馬政委員会には馬券反対派の貴族院議員もいて、議論は賛成派と反対派の間で一進一退の攻防が繰り広げられ、結果的に法案を議会に提出するまで5年の歳月を要することになりました。
政府内は基本的に馬券発売を容認する方向で議論を進めていたのですが、反対派の議員は「軍馬の改良や馬事思想の普及に馬券発売は必要ない」の一点張りで、まさに「埒(らち)があかない」というのが現実のところだったようです。
そんな状況でしたので、貴族院を中心に法案賛成派を増やすための根回しやロビー活動が盛んに行われました。馬券復活に執念を燃やす安田伊左衛門も、政府に助言を行うなど法案可決に向けて全面的に協力していました。
では、馬政委員会でどのような議論が行われていたのかというと、何といっても明治時代の”決して忘れてはならない教訓”、すなわち、いかにして馬券に絡む不正と民衆の混乱を抑えるか、というところに焦点を置いて様々な条件や規制を検討していったのです。
具体的には、八百長防止のため馬券購入者の範囲を制限し、射幸心(しゃこうしん)をあおらないよう馬券の購入金額や払戻金(オッズ)に上限を設け、さらに競馬の開催回数にも制限をかけるという、徹底した”再発防止策”が練られていきました。
こうした議論が始まった1918年というのは、4年前の1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦が終結した年でもあります。
連合国側で参戦して戦勝国となった日本でしたが、国内の馬の生産頭数が減少傾向にある中で、輸送用の軍馬の需要が急激に高まる結果となりました。
そこで、縮小し続ける馬産の状況を抜本的に改善するために、財源として馬券発売による収入がにわかにクローズアップされるようになっていきます。
最後まで反対論の強かった貴族院
1922(大正11)年、軍馬の供給問題が持ち上がっている中、陸軍省は旧競馬法案に関わっていた馬政局を農商務省(現在の農林水産省)に移管しました。第一次世界大戦後の日本を襲った戦後恐慌やシベリア出兵による巨額の出費などもあり、加藤友三郎内閣の下で軍縮と行財政整理を進めていく必要があったためです。
そうです。
ここで、ようやく現在の競馬と行政の関係性――農林水産省の指導監督による競馬の実施――ができあがったのです。
しかし、当然のように陸軍も、競馬に対して口出しする気は満々でした。あくまで、競馬は軍事上の目的を達成するために実施するものであるというスタンスは、馬政局を手放したあとも変わらなかったのです。
そしてついに、1923(大正12)年2月21日に加藤友三郎内閣は旧競馬法案を閣議決定することになります。
いよいよ法案を議会に提出する段階まできたわけですが、ここで1つ思わぬミスを政府がやらかしてしまいます。
なんと、閣議決定後に馬政委員会に法案を報告したところ、「事後報告じゃないか!」と憤慨した一部の委員から抗議されたのです。
政府としても議会への根回しは抜かりなく行っていたはずなのですが、最後の最後で肝心の馬政委員会を”ないがしろ”にしてしまっていたのでした。
結果的には、この騒動も何とか収めることができたのですが、下手をすればこのミスが原因でこれまでの苦労が水泡に帰す可能性もあったわけで、当時の政府関係者は命が縮まる思いだったことでしょう。
同年3月5日から衆議院での審議が始まりましたが、事前の根回しやロビー活動が功を奏したのか、ここではあっという間に法案が可決されました。
問題は、その後の貴族院での審議でした。
馬政委員会への事前の諮問がなかったことに不満を抱いていた馬政委員の議員が、ひたすら法案への反対演説を繰り広げたのです。
審議が始まった当初の貴族院は反対派が多数であり、審議中にも倶楽部関係者などがしきりに貴族院へのロビー活動を続けていました。
陸軍省や司法省、馬政局を中心に、政府が一体となってこの法案を通そうと必死に貴族院に立ち向かいました。審議の中で、政府からは「競馬を見ることは(民衆の)娯楽になる」とか「馬券を買うことで(レースを真剣に見るので)競争の監督者になる」といった”競馬の本質“を突いた回答がなされるなど、現代の我々にとっても重要な議論が行われていたのです。
最終的には、風紀を維持するためのより厳格な取締りを盛り込んだ修正案が出され、反対派も徐々に賛成の方向に傾いていきました。最後まで反対演説を繰り返す議員に対しては、「競馬が射幸であるなら株式などもすべて射幸ではないか」「(射幸的なものが風紀を害するのであれば)商業界は闇」といった法案賛成議員の反撃も飛び出すなど、いよいよ形勢は逆転したのです。
そして同年3月24日、旧競馬法案は一部修正されながらも貴族院で可決。修正案は衆議院でも可決され、ここに旧競馬法が成立するに至ったのです。
衆議院での法案可決を見届けた安田伊左衛門は、事務所に帰って祝宴をあげながら

今までの苦難の道を忘れず、あくまでも正しい競馬を実現しなければならない。勝って兜の緒を締めよ
と語ったといいます。
我々現代の競馬ファンは、安田記念の名レースとともに、この安田の言葉も忘れないでいたいものです。
旧競馬法の内容
1923年に成立した旧競馬法は、以下のような内容となりました。
・開催は原則年2回以内、1回あたり4日以内
・馬券の金額は5円以上20円以下、購入枚数は1レースにつき1枚に限定
・払戻金(オッズ)は30倍まで
・競馬関係者、学生生徒、未成年への馬券発売禁止
・競馬の主催者は、馬券禁止時代も競馬運営を継続していた11団体に限定
競馬関係者や未成年への馬券発売禁止などは、現在の競馬法にも通ずるものがありますが、開催回数や馬券購入金額などの制限を見るとかなり厳しい規制が入っている印象を受けます。
それだけ、明治時代の”失敗”を教訓にして「今度こそ絶対に馬券禁止になるような事態を起こさせない」という覚悟を強く持っていたのでしょう。
大衆娯楽となった競馬(大正末期~昭和初期)
念願かなって、旧競馬法の制定と馬券復活を果たした日本競馬でしたが、その直後に、未曾有の大災害が日本を襲います。
1923(大正12)年9月1日、関東地方でマグニチュード7.9の大地震が発生したのです。そう、関東大震災です。
安田伊左衛門が幹部を務めていた東京競馬倶楽部は、馬券復活後の初めての競馬開催に向けて準備を進めている最中に被災してしまいます。
目黒競馬場は奇跡的にも大きな被害はありませんでしたが、被災地復興の象徴として何としてでも競馬を開催したいという思いで、安田らを中心に準備が進められた結果、ついに、同年12月に目黒で馬券発売を伴う競馬が盛大に開催されたのです。
競馬開催前には熱心に調教を見学するファンの姿が見られるなど、被災した民衆たちにとっても、馬券復活は希望の光だったのかもしれません。
目黒競馬場には5万人もの観客が集まったようで、中でも職人風の背格好をした客が目立ったといいます。
大正時代の労働者の間では賭博が流行っていたようで、”唯一合法化された賭博”である競馬というのは、労働者たちにとっての恰好の娯楽となったわけです。
実際、馬券復活後の1924(大正13)年以降は各倶楽部の売上げが右肩上がりで急増しており、昭和初期にかけて一気に競馬が大衆娯楽として定着していったことを示しています。
一方で、馬券を買わずにレースだけを観て楽しむ客も増えていったといいます。
また、当時の特徴的な現象として馬券の共同購入が一般的に行われていたことも興味深い点です。共同購入自体は取締りの対象ではなかったようで、最低購入金額を払えない者同士が「片脚ずつ乗る」というような表現をしてお金を出し合って馬券を買っていたのです。
今でも厳しく取り締まられている「ノミ屋」(私設馬券業)もこの頃から横行していたようで、各倶楽部は警察と連携して厳しく取り締まりました。ノミ屋については、以下の記事で解説しています。
現代の我々が慣れ親しんでいる競馬雑誌や馬柱(うまばしら)もこの頃から競馬ファンの間に普及し始めています。
また、「予想屋」といわれる競馬予想を売りさばく商売もこの頃から現れ、最寄駅から競馬場へと続く通路上に予想屋たちが軒を連ねていたようです。
まさに、馬券の復活とともに大衆娯楽としての競馬文化が花開いたといってもよいでしょう。
しかし、次第に世の中は戦争ムードに包まれ、ようやく活気を取り戻した競馬界にも暗い影を落とし始めます。
次回に続きます。
参考書籍
「近代日本の競馬-大衆娯楽への道」(杉本竜著、創元社)
「競馬の世界史―サラブレッド誕生から21世紀の凱旋門賞まで」(本村凌二著、中央公論新社)
参考サイト
日本中央競馬会(JRA)
国立国会図書館