
社会の第2回は、歴史。
今回は、日本競馬における馬券の歴史について、中学生でも理解できるよう分かりやすく解説していきます。
日本の近代競馬は江戸末期から始まった
日本ではいつから近代競馬―現代の我々が普通に目にしている競馬―が始まったかご存じですか?
意外と知られていない事実ですが、なんと江戸時代末期のいわゆる「幕末」の日本にイギリスから近代競馬が初めてやってきたのです。
近代競馬発祥の地がイギリスであることは、競馬ファンの方であれば聞いたことがあるかもしれません。
しかし、ちょんまげ姿のお侍さんやお殿様が日本を治めていた江戸時代に、西郷隆盛や坂本龍馬、新選組が活躍していた幕末の日本で近代競馬が行われていたことは想像していなかったのではないでしょうか。
1862(文久2)年5月1日に横浜の外国人居留地で日本初の洋式競馬が行われたとされています。競馬自体は翌5月2日も行われたようですが、どんな馬がどんな成績を収めたかについては記録が残っていません。
競馬を楽しんでいたのは外国人たち(特にイギリス人)でしたが、早くもこの頃から賭けが行われていたといいます。
競馬を行うためには競馬場が必要ですが、もちろん競馬場もあったようです。しかし、間もなく住宅建設のために競馬場は使えなくなりました。
そこで、日本でも競馬を楽しみたいイギリス人たちが江戸幕府に強く要求した結果、横浜の根岸村(ねぎしむら)という場所に巨大な競馬場(1週約1700m)が建設されることになったのです。
こうして、1866(慶応2)年に根岸競馬場が完成し、翌1867(慶応3)年1月11日から根岸競馬場で競馬が開催されるようになりました。
ちなみに、1867年と言えば江戸幕府の終わりを告げる「大政奉還」が行われた年です。まさに、日本の文明開化とともに日本競馬の歴史も始まったのです。

この頃にはまだサラブレッドが輸入されていなかったため、競馬で走っていたのは日本在来馬や中国産馬だったようです。
主に外国人居留民たちの社交場という存在だった根岸競馬場ですが、徐々に庶民たちの見世物として日本人の競馬に対する認知度が広がっていくきっかけになりました。
根岸競馬場は、その後なんと1942(昭和17)年まで76年にわたって競馬が行われることになります。
馬券の”黙許”時代(明治中期~後期)
明治時代に入ってからも根岸競馬場での外国人たちによる競馬―いわゆる横浜競馬―は盛り上がり続けていましたが、1888(明治21)年、ついに日本で初めての勝馬投票券(馬券)が横浜競馬で発売されました。
一方で、その6年前の1882(明治15)年に制定された刑法では、賭博(とばく)が一切禁止されていました。
なお、刑法と賭博の関係については以下の記事で解説しています。
なぜ馬券の発売ができたのかというと、競馬が行われていた横浜の外国人居留地には治外法権―外国人が在留国の法律で裁かれない権利。領事裁判権―がかかるため、外国人たちによる馬券の売買(賭博)を日本側が摘発できなかったためです。
江戸時代に日本が外国と不平等条約を結んだことで、このような治外法権を認めざるをえなくなったことは、中学校の歴史でも勉強しますよね。
ところが、外国人居留地の治外法権が撤廃された1899(明治32)年以降も明治政府は馬券発売を黙認し続けました。この頃、日本はロシアに対抗するためイギリスと日英同盟を結んでおり、イギリスとの関係を悪化させたくない明治政府が外交的な配慮として馬券を黙認していたと考えられています。
そんな明治政府も、国策としての競馬の必要性を認識し始めていました。
その1つに、欧化政策の一環として日本独自に競馬を開催しようとしたことがあります。いわゆる「鹿鳴館(ろくめいかん)時代」の頃ですね。
1879(明治12)年、東京の陸軍戸山学校の敷地内に戸山競馬場が新設されました。ここに外賓を迎えて競馬を開催し、日本の文明開化をアピールしようとしたのです。
東京初の本格的な競馬場であった戸山競馬場は、1884(明治17)年に上野の不忍池(しのばずのいけ)に移転されます。以後、上野不忍池競馬は東京名物となり、明治天皇からも下賜金(かしきん)が与えられるなど盛り上がりを見せました。

しかし、欧化政策に対する民衆の反感や、財政難などもあって上野不忍池競馬は徐々に衰退していきます。
そんな中、明治政府は別の観点で競馬の必要性を認識するようになります。
それは、日清戦争や日露戦争を経て日本の軍馬の劣悪さが浮き彫りになったためです。
このあたりの詳しい背景については別の機会に解説するとして、とにかく軍馬の改良が急務になったことから、欧米諸国にならって競馬による馬の品種改良を進めようとしたわけです。
問題は、上野不忍池競馬の衰退からもわかるとおり、国民の競馬に対する熱意の低さと財政的な脆弱さでした。
ここで切り札になったのが馬券の発売だったわけです。
刑法で禁止されている馬券の発売を認めることで、国民の競馬熱も盛り上がり、馬券の売上げによって財政も潤うという一石二鳥の効果が期待できるからです。
というわけで、日露戦争真っただ中の1904(明治37)年に明治天皇から馬匹(ばひつ)改良の勅命が出され、政府内で馬券の発売について議論が行われました。
軍馬の改良を急ぎたい陸軍からは馬券発売を公許(公認)しようという提案がなされましたが、「刑法で禁止されているのに、さすがに公許はやり過ぎでは?」という政府内の慎重論もあり、最終的に「公許ではなく”黙許“が適当だろう」という結論になりました。
つまり、横浜競馬の馬券発売を黙認してきた既成事実があるのだから、同じように他の競馬場でも黙認すればよい、というわけです。
賭博という犯罪そのものを黙認するとは穏やかではありませんが、これには一応の理屈が存在しました。
すなわち、「競馬はあくまで馬の速度や力量といった知識の優劣を競うための手段であって、偶然に頼るほかの賭博とは違う」というものです。丁半博打(ちょうはんばくち)のように偶然に起こることにお金を賭けるのではなく、馬に関する知識を競うために多少のお金を賭けることは刑法上の賭博に該当しない、と法律を解釈したわけです。
この理屈や法の解釈は、のちに馬券が法律(競馬法)で公認される際の布石にもなりました。
ただ、当時の明治政府も体裁上「馬券を黙許しています」と公言することはできませんので、あくまで政治判断として内々に手続きが進められていくことになります。
1905(明治38)年末に馬券を黙許することが決まり、その後に競馬場で公然と馬券が発売されるようになると、なぜ他の賭博は禁止されているのに馬券だけが許されているのか、という不満の声もくすぶり始めます。しかし、日露戦争後の混乱や政治的な空白期間もあって、ウヤムヤになったまま競馬の熱狂が押し寄せることになるのです。
政府は競馬を奨励するために、日本各地で「競馬会」を設立させます。日露戦争で財政がひっ迫した政府は、競馬場の設置とレースの開催を民間の力に頼ったわけです。
イギリス人たちが始めた横浜競馬には「日本レース倶楽部」という大きな競馬会がすでに存在していましたので、政府は上野不忍池を最後に競馬の火が消えかかっていた東京で「東京競馬会」という新しい競馬会を設立させました。そこで白羽の矢が立ったのが、のちのJRA初代理事長である安田伊左衛門(やすだいざえもん)でした。

安田が中心となって設立された東京競馬会は、ついに1906(明治39)年11月24日に東京池上の新設競馬場で馬券発売を伴う競馬を開催しました。日本人の手によって初めて馬券が発売された競馬は大盛況のうちに終わり、莫大な馬券の収益が競馬会と政府にもたらされたのです。
横浜競馬で日本初の馬券が発売されたことは先に述べたとおりですが、その当時から現代の日本競馬でも採用されるパリミュチュエル方式によって馬券が発売されていました。
すなわち、馬券の売上げから主催者(胴元)の取り分を差し引いたあとの金額を投票数に応じて馬券的中者に分配する、という主催者が必ず儲かるという運営方法が横浜競馬の隆盛を支えていたわけです。
東京競馬会による”東京競馬”の成功は、日本競馬にパリミュチュエル方式が定着することを決定づけました。
なお、パリミュチュエル方式と競馬の主催者が儲かる仕組み「控除率」については、以下の記事で詳しく解説しています。
馬券禁止時代(明治末期~大正中期)
横浜競馬と東京競馬の盛り上がりは、日露戦争後の不況にあえぐ民衆たちを大いに惹きつけました。そして、「競馬は儲かる」と知った実業家によって日本各地に競馬会が乱立する結果となります。
日本レース俱楽部(横浜競馬)と東京競馬会以外の競馬会は、軍馬の改良や馬事振興といった本来の目的を忘れ、ひたすら賭博の胴元として儲けることに終始していました。
すると、日本各地で競馬の熱狂はピークとなり、ついには競馬に絡む不正事件やこれに端を発した騒擾(そうじょう)が頻発するようになったのです。無認可の”闇競馬”が行われたり、非合法の賭けが行われたり、競馬運営の不手際に怒ったファンが暴動を起こしたりするなど、競馬は社会を混乱させる悪者として世間から見なされるようになります。
追い討ちをかけるようにマスコミが競馬のネガティブキャンペーンを大々的に繰り広げた結果、馬券の黙許を基本方針としてきた政府もついに馬券禁止の方向へ舵を取らざるを得なくなっていきました。
そして運の悪いことに、刑法の改正時期とタイミングが重なってしまいました。
馬券発売を推進してきた政府内の勢力も抵抗はしましたが、その一派である陸軍が「陸軍が金儲けに関わるなどけしからん」という世論に耐えられなくなり、馬券禁止の方針に切り替えたことも大きな要因となりました。
こうして1908(明治41)年10月、刑法の改正に合わせてついに馬券発売が禁止されました。馬券の黙許時代は、わずか2年で終わりを告げたことになります。
馬券発売が禁止されただけで、競馬を開催すること自体が禁止されたわけではありませんでしたが、乱立した競馬会は一気に縮小し、馬券禁止後も残った競馬会は厳しい運営を強いられたのです。
また、横浜競馬の馬券発売も禁止されたことから、ショックを受けた関係者(外国人たち)が政府へ陳情書を提出しています。根岸競馬場での競馬は続けられましたが、一時の賑わいが嘘のような閑散ぶりだったようです。
以後、陸軍を中心として、まさに軍馬改良のためだけの馬券発売の伴わない競馬が続けられたわけですが、馬券の復活に向けて静かに執念を燃やす男がいました。
そう、安田伊左衛門その人です。
次回に続きます。
参考書籍
「近代日本の競馬-大衆娯楽への道」(杉本竜著、創元社)
「競馬の経済学」(渡辺隆裕監修、カンゼン)
「競馬の世界史―サラブレッド誕生から21世紀の凱旋門賞まで」(本村凌二著、中央公論新社)
「知っておきたい競馬と法」(大蔵省印刷局)
参考サイト
日本中央競馬会(JRA)